新・自然遊悠学

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2015年 12月 28日 ( 1 )


2015年 12月 28日

1339 見解遊悠学

 見解ということを自分なりに解釈すれば、事物を自らの目で眺めながら、そのものの本質正体を解き明かすことを意味する。一般には見聞録としてみたり聞いたりした事柄を記録した資料がある。しかし見たことと聞いた話しでは天と地の差位を生ずる。自分の知らない知識を他人様に聞き及んだ知識を丸吞みしてしまう場合、とんでもない勘違いで自分の脳裏に刻み込まれ、時に大恥を招くことが多々ある。

 他人を信じる、それは他人に知識であり、自ら得た知識ではない。現在、自分もパソコンを持っている。コンピューターという巨大頭脳を一台有していさえすれば、何事へも素早く反応して知識を見聞できる、検索という便利な謎解き入り口を知りえることが出来る。しかしながらパソコン知恵とて、所詮、他人の見聞であり、そのものがすべて信用できるのかという、いささかな疑問がある。

 信じることができる知、それは自分で自然事象を見参しながら、事物の正体を謎解き解析すること。

 「信用できる情報は他人様へ依存せず。」これがここまでたった一人で自然遊悠学という学問を切り開いた、見解遊悠学なる取り組みの骨子一環だった。単身であるゆえ、ひとつのテーマにかなりのロスと繰り返しが重なり、ものの解明には時間が要することになる。それでも長い年数年月をついやすれば自然知を自分のものにすることが可能だ。しかし、知り得た知識とて、ある日ある時の出来事でもって、一瞬の間に知り得た知識が葬られてしまうことがあって、知の解明は複雑怪奇、大願成就への道は遥か遠いもので、それは幾つもあるひとつの一里塚のごとく、幻の里程標にすぎないから厄介なのである。

 岩魚みち、未だ山腹なり

 人生70年、単身でイワナという渓魚を追いかけていたが、「日本全土イワナ止めを見る」50年前の目標達成はならず、今だに初心に掲げた夢の実現は出来ないでいる。日本列島は長く広く、体力、軍資金がこれから課題となり、思うようには事が進行してない。けれども、自分の余命は今後、10年以上はあると信じている。気ままにのんびり山釣りイワナを実施すれば、いつかある日、目的地到着を果たすことができるかもしれない。

 
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by yuuyuugaku-ueno | 2015-12-28 11:09 | 自然遊悠学論